書評試作品2『うたかたの日々』

『うたかたの日々』ボリス・ヴィアン光文社古典新訳文庫
 「肺で植物が生長していた」。時折、こんなニュースを目にする。例えば2009年、ロシアのアルチオン・シドルキンさんが吐血と肺の苦しみを訴えたため検査をしたところ、肺に5センチのモミの木が生長していたという。痛そうだ。
 そんなニュースで引き合いに出されるのが、今回ご紹介する『うたかたの日々』だ。1947年に出版され、今もなお強い印象を私たちに留めている。この小説の作者ボリス・ヴィアンは、「病死系恋愛小説」という古典的な題材を、肺で生長する睡蓮という詩的なイメージで昇華させることに成功したといえる。
 実際、この作品は、主人公コランの恋人クロエの胸に咲く睡蓮を中央に配した奇想小説という側面を持つ。何しろこの世界では、突拍子もない出来事が次々に起こり、読者を飽きさせない。だが、読み進むうち、その多くが、生死に満ちた作品世界を裏付ける素材だと分かる。肥料で再生する靴底、再び生えてくる窓ガラス、わずかの間に世代交代するリンゴ。無機質なはずのものが生長する、いわば絶倫世界だ。その一方、無慈悲に命を奪われる者も多い。スケートリンクの死体は熊手で一掃され、激突したスケーターは壁に張りつく。指揮者は敷き石でぺしゃんこだ。定着液で絶命するネクタイ、銃で射殺される機械など、物でさえ命を奪われる。また、生死を孕む描写もある。女性スケーターが産み落とす卵はコランの足元で割れる。病を殺すはずの薬は、命を宿し勝手に動く。そしてなにより睡蓮こそが、生と死を併せ持つ。睡蓮は生長の過程で、罹患者であるクロエの生命力を吸うのだから。
 この作品で、恋愛を崩壊から救っているのも、実は睡蓮である。「ぼくは恋がしたい」この宣言から程なく恋を手に入れるコランだが、結婚を前後して未熟さを露呈する。コランがクロエとの関係を拒むような行動を繰り返すのだ。「お化粧を乱してはいけないから」とクロエにはキスせず、別の娘にキスする。「きみを起こしたくなくて」と結婚初夜にクロエとは眠らない。さらに、病に伏したクロエについて、「一緒にいるだけではどうしてだめなのか、そのうえ心配までしなければならないなんて」と語る始末。そんな二人の破局を描かず、結婚の先にあるすれちがいを回避するため配置されたツールとしても睡蓮は機能している。クロエは、病に伏す中、キスして欲しいと乞うが、コランは「君は病気なんだ」と返す。病であるからこそ、コランは結婚の先へ進まない選択肢を手にすることができたといえる。
 そんな本作で、初めに読者を捉えるのは、鮮やかな色彩だろう。開巻、コランの描写にこれでもかと投入されるのは黄色を基調とする色。黄は浴室のタイルに絹のハンカチ、キッチンの調整台。肌は金。櫛は琥珀。好きなものは「日の光」と徹底している。明るく生命力に満ちたコランのイメージを定着させると共に、男性性も表す。それに呼応するように姿を現すのは女性性を裏付ける紫。コランの自室に恋の気配が立ち込める中、絨毯の色はうす紫。黄色の香を焚く男たちに対応し、女性が焚くのは紫の香。男女が結ばれる結婚式では、黄色と紫が登場。結婚式で修道士が塗るペンキは黄色に紫のしま。使う杖は黄色い矛槍と紫の杖。そして赤には衝動や欲望が含意される。本に狂う主人公の友人シックの目は真っ赤な光を放つ。人々を踏みつぶす象の背は赤く照らされる。
 さて、作中、これほど意味を付与される色彩だが、物語の中核を担う睡蓮に、色は最後まで与えられない。これは、作者が意図して作った余白だろう。睡蓮の花色は、赤、白、黄など様々な品種があるという。クロエの睡蓮は、何色だろう。