書評試作品3『第七階層からの眺め』

『第七階層からの眺め』ケヴィン・ブロックマイヤー著、金子ゆき子訳(武田ランダムハウスジャパン) 

 スプロール・フィクションをご存知だろうか。これは、2003年に翻訳家・小川隆氏が提唱した小説の「ムーヴメント」だ。ジャンルの垣根を超えた作風を特徴とし、日本でも紹介が進んでいるニール・ゲイマンケリー・リンク、そして今回ご紹介するケヴィン・ブロックマイヤーもその一員とされる。さて、O・ヘンリ賞、イタロ・カルヴィーノ短篇賞など数々の賞を得ているブロックマイヤーだが、彼の第二短編集『第七階層からの眺め』は、なるほどジャンル越境的だと納得できるバラエティぶりだ。ざっくり分けてもSF、ファンタジー、ホラー、寓話、ミステリー。それも、例えばひとくちにホラーといっても英国怪談風味の「ジョン・メルビー神父とエイミー・エリザベスの幽霊」があれば、現代のホラー小説を思わせる「ホームビデオ」も配置する。着想も手が込んでいる。寓話風のショートストーリーでは、人々が互いの目を見ない街(「瞳孔にマッチ棒の頭サイズの映像が含まれている物語」)など、意表を突く設定を仕掛けてくる。また、どう語るか、という部分でも気配りが行き届いている。例えば、主人公の想念が過去と現在を行き来する表題作や、チェホフの有名作品をスタートレックの世界で語り直す変化球「トリブルを連れた奥さん」など。この多彩ぶりは、解説で小川隆氏が述べている通り、作者自身が子供の頃コミックやSFを愛読し、現在も読書の大半が現代小説だからこそなせる技だろう。
 だが、作品世界こそ賑やかだが、その設定を取り除けば、そこにあるのは、普通の人々の暮らしだ。静かに暮らす責任があると考える女性。自分から何かを始めない方が良いと学び、生きてきた男。そんな内気な彼らは、その生活を大切にしている。例えば巻頭の寓話「千羽のインコのざわめきで終わる物語」は、街のすべての人々に歌の才能がある街が舞台。その中で唯一口のきけない主人公は、住民のおしゃべりを聞くことで心が慰められる。彼の人生には、結婚も育児もなかったが、たくさんのインコと生活を共にすることを幸せに生きている。
 そして、登場人物に注がれる視線は暖かい。主人公たちを見つめる存在は、先ほどのインコだけでなく、別世界に住む知性体や壁の写真など、様々に姿を変えて登場する。だが、登場人物をを見下したりはしない。表題作では、「実在」という知性体が主人公に「私に何か出来ることはない?」と語りかける。そして「あなたにとって、私は虫みたいなものよね」という主人公に対し、「私自身も虫みたいだから」と答える。自らも限りある生を受けた存在だと自覚しているのだ。
 苦闘する人たちの受ける苦難や悲しみも好意的にとらえられている。集中の白眉といえる「ルーブ・ゴールドバーグ・マシンである人間の魂」は、昔懐かしいゲームブック形式を採用。様々な追想と普通の生活が描かれる32の選択肢は、だが全て死に辿り着く。タイトルの「ルーブ・ゴールドバーグ・マシン」とは、無駄骨機関と訳される。分かりやすいのは「ピタゴラスイッチ」だろう。複雑だが無意味な人生に転がる玉である人々には、傷や色がつくが、それは「しるし」として未来永劫たずさえていくことになる。「人生のもたらす労苦は最良の時」「人生は、どんなに不運があってもなお、浸るには最高の場所」と語られる人生観と重なる。 
 こうして見ていくと、ブロックマイヤーはスプロール・フィクションの一員とされるが、作中で語られる古典的なSF作家たち−レイ・ブラッドベリシオドア・スタージョンに近いのではないだろうか。ジャンル不分明な時代にパルプ雑誌に書きまくっていた力強さが、半世紀の時を超え帰ってきた。